茗荷坂 紹介動画作りました!
茗荷谷周辺は別名「小石川」と呼ばれていて、
東京市の頃は「小石川区」と呼ばれていたそうです。
1947年に本郷区と合併し、文京区になったという経緯があります。
なので地名や看板も茗荷谷という文字は少なく、
小石川と書かれているところが多いんです。
なるほどね~
そんな茗荷谷駅の裏にある 「茗荷坂」
坂名の説明板には
「茗荷坂は、茗荷谷より小日向の台へのぼる坂なり云々。」
と改撰江戸志にはあります。
これによると拓殖大学正門前から南西に上る坂をさすことになりますが、
今では地下鉄茗荷谷駅方面へ上る坂の事も茗荷谷坂と言っています。
茗荷谷をはさんでのことであるので両者とも共通して理解してよいであろう。
と書かれていました。
なんだか難しいが
茗荷坂のと言われる範囲が今では広くなったってことかな?
茗荷谷の地名については御府内備考に
「・・・・・・むかし、この所へ多く茗荷を作りしゆえの名なり云々。」とあります。
自然景観と生活環境にちなんだ坂名の一つといえるのでしょう。
そのすぐそばには、茗荷がいっぱい生えた一角があり
茗荷谷の地名の由来が書かれています。
このあたりは、茗荷畑が広がっていたため、茗荷谷と呼ばれていたそうです。
茗荷谷なのに みょうが が関係なかったら
なんか詐欺にあった様な感覚に陥りますからね
安心しました。
茗荷谷坂を下っていくとり林泉寺があります。
林泉寺(文京区小日向4-7-2)は1602年
伊藤半兵衛長光を開基として創開しました。
「盗難や失せ物があると、地藏尊に縄をかけ、願いがかなうと縄をほどく」
と言う変った風習があり、昔は荒縄、今はビニール紐と趣はだいぶ変りましたが、
お地蔵様は今も昔もグルグル巻きにされ、そこから「縛られ地蔵」と呼ば れました。
それにしても、なんだか不憫に思えてしまう・・・
お地蔵様が縛られる由来は、江戸時代に遡ります。
享保年間(1716~36年)日本橋の呉服間屋の手代が大八車に反物を積んで、
業平橋(現・墨田区)近くの南蔵院の門前を通りかかりました。
木かげでひと休みしたところ寝入ってしまい、
目がさめると さあ大変、門前に置いた反物は車ごと無くなっていました。
あわてた手代はさっそく町奉行へ訴え出ました。
取調べに当たったのが町奉行の 大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)で、
「反物が盗まれたのを見すごすとは、門前の地蔵も同罪である。 縄打って引っ立てて参れ」
と命じました。
お地蔵様は荒縄でぐるぐる巻きにされ、大八車に乗せられて奉行所へ連れて行かれます。
物見高いは江戸っ子の常、前代未聞のお地蔵様の引き立てに、ぞろぞろとついて行きました。
奉行所の門は開け開かれ民衆は中まで入っていきました。
頃合を見て越前守は門を閉め、
「奉行所の白州へ乱入するとは不届至極、その罰として反物一反を納めよ」
野次馬たちは驚いたが、納められた反物から盗まれた反物が発見され、
大盗賊団がことごとく捕まって一件落着したそうです。
ずごいな。大岡越前守忠相。
計算か?
計算なのか?
その他、茗荷坂の付近には
「蛙坂」・「藤坂」・「釈迦坂」があります。
動画もご覧下さい。
ユーザー:orangeroom
再生時間:00:05:46
投稿日時:11/07/02 23:24
カテゴリ:暮らし全般 ビジネス全般 住まい・不動産
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