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合唱組曲島よ(朗読) (お話です)ミシュナ・タルムード「アヴォート(Avot)」篇の共同社会について
合唱組曲島よ(朗読)

(お話です)


ミシュナー・タルムード


「ピルケ・アヴォート


(Pirke Avot)」篇


◎The struggle within us

(我々の内での苦闘)」

The forces within us

選択をする時に、われわれの中で2つの力が働いていると、ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求、他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し、Tovは善(good)を意味する。他方、悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。(「Yetzer Tov=善の衝動」、「Yetzer HaRa=悪の衝動」)

われわれの各々の人は、これら2つの衝動をいかに操作するかに関わる。「Yetzer Tov」は正義の人をコントロールし、他方「Yetzer HaRa」は邪悪をコントロールする。しかしタルムードでは、両方の衝動が平均的な人をコントロールすると言う。(Berachot 61a)

我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーにあり、全体に正義でもなければ、また全体に邪悪であるわけでもない。

 



◎Needing impulses for

both right and wrong

しかし、何が正しいことで、何が悪いことか、われわれはいかにして判断するのであろうか。どうやって一方の衝動から他方を識別するのか。選択はいつも明瞭であるというものではない。いつでも邪悪な一つの選択があり、いつでも正義の一つの選択がある、ということをラビが暗示している時、単純に示しすぎてはいないのか。ラビの理解というのは実際にはもっとずっと複雑であったのだ。彼らは「Yetzer HaRa」が邪悪だとは信じていなかった。それはちょうど邪悪に向かった傾斜であるのだ。彼らは、「Yetzer HaRa」が多くの局面で有用になりえる、ということまでも理解している。このことを示すために、彼らはこんなたとえ話を言っている。


昔、われらの賢者たちは「Yetzer HaRa」を捕まえて、それを金の鎖で縛り上げた。最初彼らは自分たちでたいへん喜んでいた。盗みは止り、殺人は無くなった。人々は友好的になり、互いを愛するようになった。嫉妬は無くなり、イスラエルの全地においてイスラエル人と隣人との間の論争も無くなった。死ぬ者はいなくなった。


しかし突然、彼らは奇妙な出来事を見るようになり始めた。人々はとても満足したので精を出して働く心配がなくなった。競争が無くなったので人々は働くことを止めてしまった。新しい家はもう作られなくなった。人々はもはや、結婚もしないで、子供を欲しがらなくなった。ラビでさえ不精になり始めた。その時、ラビは「Yetzer HaRa」が世界において如何に必要であったかを理解した。それで彼らは縛ってあった鎖を壊し、それを自由にした。
(Genesisi Rabbah 9:7)






■ピルケ・アボット

(Pirke Avot)編

以外の律法



ユダヤ王は真の世界の法王、世界にまたがる教会の総大司教となる。だが、一方で、われわれが青年層を過渡期の新しい伝統の宗教に、後にはわれわれの宗教で再教育する間、われわれは明らさまには既存の教会には指一本触れないけれども、教会内部の軋轢を目ざし批判を加えて宗教人と闘う。その場合、一般的には、われわれの現代の新聞はゴイムの国家問題、宗教、ゴイムの無能さを断罪し続けるが、常に、わが民天与の才能を振い、あらゆる手段を駆使してかれらの威信を剥奪すべく、罵詈雑言を浴びせ百方中傷する。
<十七>

ユーザー:有馬徳彦
再生時間:01:27:07
投稿日時:12/06/01 0:27
カテゴリ:暮らし全般 エンタメ全般 教育全般 
タグ: 合唱組曲島よ(朗読)    (お話です)    ミシュナー・タルムード      「ピルケ・アヴォート      (Pirke  Avot)」篇      ◎The  struggle  within  us    (我々の内での苦闘)」    The  forces  within  us    選択をする時に  われわれの中で2つの力が働いていると  ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求  他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer  Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し  Tovは善(good)を意味する。他方  悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer  HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。(「Yetzer  Tov=善の衝動」  「Yetzer  HaRa=悪の衝動」)    われわれの各々の人は  これら2つの衝動をいかに操作するかに関わる。「Yetzer  Tov」は正義の人をコントロールし  他方「Yetzer  HaRa」は邪悪をコントロールする。しかしタルムードでは  両方の衝動が平均的な人をコントロールすると言う。(Berachot  61a)    我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーにあり  全体に正義でもなければ  また全体に邪悪であるわけでもない。              ◎Needing  impulses  for      both  right  and  wrong    しかし  何が正しいことで  何が悪いことか  われわれはいかにして判断するのであろうか。どうやって一方の衝動から他方を識別するのか。選択はいつも明瞭であるというものではない。いつでも邪悪な一つの選択があり  いつでも正義の一つの選択がある  ということをラビが暗示している時  単純に示しすぎてはいないのか。ラビの理解というのは実際にはもっとずっと複雑であったのだ。彼らは「Yetzer  HaRa」が邪悪だとは信じていなかった。それはちょうど邪悪に向かった傾斜であるのだ。彼らは  「Yetzer  HaRa」が多くの局面で有用になりえる  ということまでも理解している。このことを示すために  彼らはこんなたとえ話を言っている。        われらの賢者たちは「Yetzer  HaRa」を捕まえて  それを金の鎖で縛り上げた。最初彼らは自分たちでたいへん喜んでいた。盗みは止り  殺人は無くなった。人々は友好的になり  互いを愛するようになった。嫉妬は無くなり  イスラエルの全地においてイスラエル人と隣人との間の論争も無くなった。死ぬ者はいなくなった。      しかし突然  彼らは奇妙な出来事を見るようになり始めた。人々はとても満足したので精を出して働く心配がなくなった。競争が無くなったので人々は働くことを止めてしまった。新しい家はもう作られなくなった。人々はもはや  結婚もしないで  子供を欲しがらなくなった。ラビでさえ不精になり始めた。その時  ラビは「Yetzer  HaRa」が世界において如何に必要であったかを理解した。それで彼らは縛ってあった鎖を壊し  それを自由にした。  (Genesisi  Rabbah  9:7)              ■ピルケ・アボット    (Pirke  Avot)編    以外の律法        ユダヤ王は真の世界の法王  世界にまたがる教会の総大司教となる。だが  一方で  われわれが青年層を過渡期の新しい伝統の宗教に  後にはわれわれの宗教で再教育する間  われわれは明らさまには既存の教会には指一本触れないけれども  教会内部の軋轢を目ざし批判を加えて宗教人と闘う。その場合  一般的には  われわれの現代の新聞はゴイムの国家問題  宗教  ゴイムの無能さを断罪し続けるが  常に  わが民天与の才能を振い  あらゆる手段を駆使してかれらの威信を剥奪すべく  罵詈雑言を浴びせ百方中傷する。  <十七>        重ねて述べるが  臣民は自分たちとは絶対的にかけ離れた力強い手に対しては  盲目的に服従する。彼らはそこに自分たちを襲う社会的な鞭から守ってくれる防御の剣を感じて支持するのである……彼らは王者に天使の心を期待するのか?  彼らが王者に見たいのは力    力の権化なのである。  <二十三>        ダヴィデ王の子孫のうちの数人が  相続権ではなく優れた資質を基準にして王と後継者を選定する。その人々には  政治の最高機密と政府の仕組とが伝授されるが  常に何びとにも極秘の知恵が漏れないように留意する。この方式の真意は  このような秘義を授けられたことがない者には  政府を委すことはできないということを徹底させることにある。これらの人々にのみ  何世紀にもわたる諸経験と比較しつつ  私がこれまでに述べたような計画の実際化や  政治経済運動や社会科学研究の全成果-一言で言えば  人間関係を律する動かしがたい天然法則の大真理-が伝授される。  <二十四>        たとえ残忍であったとしても無条件に断固たる人物にのみ  われらの賢人長老たちから支配統治の手綱を渡されるのである。……通常の時間における王の行動計画と将来に関することはすべて  最も親しい助言者たちにも知らされない。王と三人の顧問のみが  将来の計画を知っている。断乎とした意志で自分と人類を律する王の人柄には  万人が神秘の宿命を認めるのである。何びとも王が何を行おうとしているのかを知らぬので  あえて知らぬ小路を遮ろうとする者はいない。王の頭の中には実行すべき政府計画を理解するに足りる知恵が貯えられていなければならない。王位に就く前に  前に述べた賢人長老たちが試験を行うのは  そのためである。  <二十四>        ユダヤ王は自分の感情  とりわけ情欲のとりこになってはならない。王は自分の人格のどの一面でも  荒々しい本能に精神をしのがせることがあってはならぬ。情欲はいかなる精神的な欠点よりも  明晰に見る力を殺ぎ  思考を人間の性質中最悪の獣的なものに落とし込む。ダヴィデの聖なる子孫である全世界統治王その人は  人類の支柱であり  人民のためにはいかなる個人的希望をも犠牲にしなければならない。われらが至高の王は完全無欠の権化でなければならない。  <二十四>        あなたは  あなたの神  主の聖なる民である。あなたの神  主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び  御自分の宝の民とされた。(申命記  七章六)        主はあなたの意のままにあしらわせ  あなたが彼らを撃つときは  彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず  彼らを憐れんではならない。  (申命記  七章二)。          掟の言葉より法師の言葉を敬え。  <アシ法師>        汝知るべし  法師の言葉は予言者の言葉より美し  と。  <アシ法師>        もし法師  汝の右の手を左の手と言ひ  左の手を右の手と言ふとも  彼の言葉に違ふべからず。  <アシ法師>        犬は異邦人より勝れたるものなり。  <アシ法師>        拾得物を紛失者に返却すべしとの戒は  ユダヤ人に対してのみ守らるべきものにして  ゴイに対しては然らず。この事に就き亡き吾等の教法師達の言えるあり。即ち  「遺失物とはすべて汝の兄弟の失いしところの物を指すものにして  ゴイの失える物は然らず。その理由は  ゴイは神に属する者に非ずして  地の邪神に属する者なる故なり。故にゴイの失える総べての物は  この世にては再び見付けらるる事なき遺失物にして  その所有者に還るべきにあらず。財宝は唯イスラエル人にふさわしく  他の民はこれに値いせざるものなればなり。これ預言者イザヤ(二六ノ一九)の言えるが如し」と。  <ゲルソン法師>        ゴイの耳は不潔である。かれらの浴槽  住居  田園は不潔である。  (トセフタ・ミクワト  vの一)        ユダヤ人はゴイから奪ってよい。ユダヤ人はゴイから金を騙しとってよい。ゴイは金を持つべきではなく  持てば神の名において不名誉となるだろう。  (シュルハン・アルーフ  コーゼン・ハミズパット  三四八)        ゴイの失せ物を見付けた者は自分の所有にしてはならないが  ゴイに返すことは禁じられている。  (シュルハン・アルーフ  コーゼン・ハミズパット  二六六の一)。        タルムードの誡において神は命じて曰く  ゴイに金を貸すには必ず高利を以てすべし  と。これ  彼らが借りたる金により利する事なからんため  かつまた  我らが金銭にて彼らに助力を与うることなく  むしろ損害を与えんがためなり。  <モシェー・バル・マエモン>            ゴイにわれらの信教を教える者は  ユダヤ人を殺すに等しい。もしもゴイがわれらの教説を知ったならば  かれらは公然とわれらを殺すだろう。  (リブル・デヴィッドの書  三七) 

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